記憶に残る名選手

記憶に残る名選手:辻発彦選手

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経歴


辻発彦選手は1983年ドラフト2位で入団しました。

社会人時代はサードが主戦場でしたがセカンドの適正を見出されての指名で、キャンプでは当時の広岡監督に徹底的に鍛えられ守備の名手に成長しました。
実際に監督がお手本を見せながらの指導だったようで、この点は辻選手が監督になってからも受け継がれているように思えます。

また大型内野手だったもののプロでは主に9番や1番を打つ繋ぎ役として活躍しました。
タイトルは首位打者最高出塁率を1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞8回を獲得しライオンズの黄金期を支えました。

しかし1995年に成績を落とすと辻選手自身の意向の確認もなくコーチ就任を打診されたため現役続行を希望して自由契約となり、ヤクルトに移籍しました。
移籍後は見事に復活を遂げて1996年はリーグ2位の打率を残し、以降もサブ要員として活躍を見せますが故障もあり1999年限りで引退しています。

1987年の日本シリーズ


辻選手といえ忘れられないのはやはり1987年の日本シリーズ第6戦です。

3勝2敗と日本一に王手をかけた状態でこの試合を迎えました。
2-1と1点リードして迎えた8回裏2死1塁の場面で秋山幸二選手がセンター前ヒットを放つと、1塁ランナーの辻選手が一気にホームインしたプレーは今でも語り草になっています。
これは当時の伊原コーチクロマティ選手の緩慢な守備や川相選手の癖などを見抜いた上での判断だったようです。

またこの試合は9回表2死となったところでファーストの清原和博選手の涙が止まらなくなった事でも話題となりました。
この場面で異変に気づきタイムをかけてなだめていたのも辻選手でした。

引退後


ヤクルト、横浜、中日でコーチを務め2017年からはライオンズの監督に就任しました。
するとライオンズで広岡監督、森監督、ヤクルトで野村監督、中日で落合監督という名将に師事した経験を活かしBクラスに低迷していたチームを2位に引き上げます。
更に2018年からはリーグ2連覇を成し遂げました。

今年は故障者が続出した影響などもあり苦しいシーズンを送っていますが、1つでも上の順位で終われるような戦いを期待しています。


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記憶に残る名選手:G.G.佐藤選手

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経歴


佐藤隆彦選手は2003年ドラフト7巡目で入団しました。
大学卒業後はマイナーリーグでのプレーを経験し、帰国後にライオンズ入団テストを受けた上での指名でした。
登録名のG.G.佐藤は子供時代にジジくさいと言われたことが由来のようです。

入団後3年は捕手→内野手→外野手とポジションを変更しますが1軍定着できませんでした。
しかし2007年にライトのレギュラーを獲得すると、以降はタイトル獲得は無かったものの持ち前のパワーを発揮して主に5番打者として活躍します。

しかし2010年は成績が低迷すると出場機会を減らし、翌2011年は一度も1軍出場を果たせずに退団となりました。
これはマイナーリーグの厳しい環境を経験した影響で毎年のように契約更改で揉めていたため、成績が下降してきた際に早めに見切りをつけられた可能性もありそうです。

翌年はイタリアでのプレーも経験し、2013年にロッテでNPB復帰した後、2014年限りで引退しています。

パフォーマンス


佐藤選手といえばお立ち台でのマイクパフォーマンスが有名でした。
自身に愛の波動砲というキャッチフレーズをつけ、「キモティー!」と叫ぶなどのパフォーマンスで人気を博しました。

北京オリンピック


そして佐藤選手といえば北京オリンピック出場時のエラーがクローズアップされてしまいます。



ライオンズファンとしては佐藤選手がバッシングを受けるのを辛く感じていましたし、オリンピック後のNPBで変わらず活躍する姿を見て安心しました。

引退後は自身もテレビなどでネタにするなど立ち直っているような印象を受けました。
しかし東京オリンピックで韓国戦に勝利した際に号泣した姿を見て、本人も気づかないところでまだ吹っ切れていないほどの辛い出来事だったのだなと改めて感じました。

引退後


引退後は実父の経営する会社に入社し、社の軟式野球部にも所属したようです。
またテレビ出演などのタレント活動も行なっています。

退団時の経緯からライオンズとは距離を置いているインスタでしたが最近はSNS等でライオンズに触れる事も増えてきたため、試合時のイベント等で登場する事もあるのではと期待しています。


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記憶に残る名選手:和田一浩選手

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経歴


和田一浩選手は1996年ドラフト4位で入団しました。
強打の捕手として期待されましたが伊東選手の壁は厚く打力を活かすために外野でも併用されます。
それでも2001年には次世代を担う捕手として松坂投手先発時には優先的にマスクを被るようになり、打撃でも16本塁打を放つなど飛躍のシーズンとなりました。

そして2002年に就任した伊原監督は打撃を活かすために外野に正式にコンバートします。
すると初の規定打席に到達して​​33本塁打を放つ活躍を見せると、以降は5番打者に定着しライオンズ在籍中に首位打者1回、最多安打1回、ベストナイン5回を獲得しました。

しかし2007年にFA権を取得するとオフには出身地岐阜に近いドラゴンズに移籍しました。
ベンちゃんの愛称で親しまれた選手だっただけに移籍は本当に残念でした。
ドラゴンズでも主力として活躍し2010年にはシーズンMVPを獲得します。
そして2015年に史上最年長の2000本安打を達成するとその年限りで引退となりました。

遅咲きの強打者


和田選手といえば独特のオープンスタンスが特徴的でした。
また擦ったような打球が思いのほか伸びていきスタンドインする事が多々あり、他の選手には真似のできないようなバッティング技術だったと思います。

また大卒社会人卒に加えて正捕手に伊東選手が君臨しており出場機会が限られていたため30歳時点での通算安打はわずか289本でした。
その時点で主軸に定着していたとは言えまさか2000本安打を達成できるとは思っておらず、遅咲きながらも息の長かった選手として強く印象に残っています。

引退後


引退後はコーチなどは務めておらず現在は解説等を行なっています。
人柄も良い選手だっため打撃コーチ等でまたライオンズに復帰して欲しいと願っているOBの1人です。


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記憶に残る名選手:橋本武広投手

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世紀のトレード


橋本武広投手は1989年ドラフト3位でホークスに入団しました。
しかし入団から4年間で結果を残せずにいると1993年オフの世紀のトレードでライオンズに移籍してきました。
もしかしたら社会人時代はプリンスホテル所属だった事も影響してトレード要員に含まれたのではないかと思っています。

トレード時は同じくライオンズに移籍してきた外野のレギュラーの佐々木誠選手、ホークスのエースだった村田勝喜投手に比べると地味な存在であまり名前も知られていませんでした。
しかし移籍1年目からリリーフとして22試合に登板すると、主に対左打者のワンポイント要員として翌年から7年連続で55試合以上に登板しました。
1997年には最多ホールドのタイトルを獲得しています。

東尾監督が高く評価しており1997年のリーグ優勝直前には橋本投手を胴上げ投手にすると公言していた程でした。
しかしこの年はサヨナラ勝ちで優勝が決まったため胴上げ投手にはなれず、翌1998年のリーグ連覇がかかった試合でライオンズがリードした9回に登板し無事胴上げ投手となりました。

2002年は開幕から打ち込まれるとシーズン中にタイガースにトレードとなりました。
それでも結局世紀のトレードで移籍してきた3選手の中では最も長くライオンズに在籍した選手となり、トレードで大きく花開いた選手となりました。

小柄ながらも並み居る強打者を飄々と抑えていく投球には安定感があり、左腕不足に悩む今のライオンズに最も必要なタイプの選手と言えるのではと思います。

引退後


2010年から2013年まではライオンズで投手コーチを務めました。
現在は社会人野球でコーチを務めているようです。


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記憶に残る名選手:西口文也投手

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西武のエース


西口文也投手は1994年ドラフト3位で入団しました。
ドラゴンズが外れ1位での指名を検討したものの、西口投手がドラフト直前まで大学の入替戦があり事前接触ができなかったため別の投手の指名に切り替えたという経緯があったようです。
そのためライオンズが3位で指名できたのは幸運だったと言えるかもしれません。

1年目は米独立リーグに留学し元々の決め球であるスライダーに加えてチェンジアップを習得すると、2年目からはローテーションの軸として活躍を見せます。
細身ながら躍動感溢れる投球フォームから150km/h超の速球を投げ込み7年連続二桁勝利を挙げるなどの活躍を見せました。
一方で球質的に被本塁打が多く防御率はそれほど良くはない投手でした。

前にも書きましたが同時期に1998年ドラフトで入団した松坂大輔投手も活躍した事からファンの間でどちらがエースか論争が起こり、最終的に松坂投手日本のエース西口投手西武のエースと呼ばれました。

しかし年齢と共に球速が落ちてくると成績が下降気味となり、統一級が導入された2011年には復活を見せますが、その後は低迷し2015年限りで引退しました。
プロ通算は182勝と僅かに200勝に届かなかったのが残念でした。

28人目の呪い



敢えて書くまでもないほど有名ですが西口投手は大記録のチャンスを3度逃しています。

2002年のマリーンズ戦では9回2死までノーヒットノーランを継続していましたが、小坂選手にヒットを打たれ記録を逃しました。

2005年のジャイアンツ戦では同じく9回2死までノーノーだったものの、清水選手にソロホームランを打たれて完封まで逃してしまいました。

極め付けは2005年のイーグル戦では9回表を終えた時点で完全試合を継続していました。
しかし打線が荒れ球の一場投手を攻略できず延長に突入すると、10回表先頭打者の沖原選手にヒットを打たれてしまいました。

いずれもヒットを許したのは奇しくもその試合で28人目の打者でした。

また西口投手は日本シリーズに5回出場し7試合に登板したものの1勝もできず5連敗というNPB記録も持っており、勝負どころに弱いとも言えますが、まさに悲運のエースという投手でした。

引退後


2021年現在はライオンズで1軍投手コーチを務めています。
天才肌の選手のためどのような指導を行っているのか気になるところではありますが、若手投手の中から次代のエースを育て上げて欲しいです。


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ライオンズファン歴35年。ブログでライオンズに関する記事を書いています。
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