記憶に残る名選手

記憶に残る名選手:オレステス・デストラーデ選手

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カリブの怪人


​1989年に主砲バークレオ選手が不振に陥ったため、ライオンズはシーズン中に新外国人選手としてデストラーデ選手を獲得すると、6月の加入にも関わらずいきなり32HRを放ちます。
2年目以降も主軸として活躍し、秋山選手、清原選手とのクリーンアップはAKD砲と呼ばれ、本塁打王3回、打点王2回、指名打者としてベストナイン3回を獲得しました。

眼鏡をかけたインテリっぽい風貌で、日本では短距離打者が多かったスイッチヒッターとして両打席でホームランを量産したのは衝撃でしたし、当時の外国人選手は巨漢系がほとんどだったため二桁盗塁を3回も記録した俊足にも驚きました。
またホームランを放った後の弓引きガッツポーズが格好よかったためよく真似をしていた記憶があります。

黄金期の主砲としてチームを支えたデストラーデ選手ですが、1992年オフに幼少期を過ごしたフロリダに新設されたマーリンズからのオファーを受けて退団となりました。
1年目はマーリンズの主砲として活躍するも2年目には不振に陥ってしまい、5月下旬にウェイバー公示されると以降はプレーしない状態が続きました。

すると1995年にライオンズ復帰したものの半年以上もブランクがあったために結果を残せず、シーズン途中で退団し、引退となりました。
なおこのシーズン中の大量リードされた試合で、東尾監督は8回2死からファンサービスの一環としてデストラーデ選手を投手として登板させましたが。3塁打、四球、四球でアウトを奪えずに満塁のピンチを作って降板しています。
(この満塁のピンチは竹下投手がなんとか凌いでいます)

引退後


帰国後は新設されたタンパベイ・デビルレイズ(当時)にフロント入りし、ライオンズとの業務提携にも関わっています。
それがきっかけで個人的にMLBではレイズのファンとなりました。

現在では解説者等を務めており、日本でもライオンズ関係のイベントやインタビュー等で時々目にする機会があります。
現役当時の真面目そうな雰囲気とは異なりひょうきんな一面も垣間見えて、少し意外に感じたりしています。


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記憶に残る名選手:小関竜也選手

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いぶし銀の2番打者


小関竜也選手は1994年ドラフト2位でライオンズに入団しました。
高校時代はエースピッチャーでしたがプロ入り後は外野手に転向しています。
なお高校時代の控え投手は後にマリーンズに入団したアンダースローの渡辺俊介投手でした。

プロ入り後3年間は2試合の出場に留まりましたが、4年目の1998年はシーズン途中からレギュラーに定着し、規定打席未到達ながら新人王を獲得しました。
入団4年目での新人王獲得は2020年時点でパリーグ唯一となっています。
以降は松井稼頭央選手の後の2番打者に定着しチームを支えました。

しかし2005年に出場機会を減らすとMLB移籍を直訴して自由契約となり、ブルワーズとマイナー契約を結びますが、チームの外国人枠が埋まった事から退団し帰国してジャイアンツと契約します。
その後は2008年にベイスターズに移籍し、その年限りで引退となりました。

プレースタイルとしては長打力は無いものの2年連続でリーグ最多犠打を記録するなどいぶし銀タイプの巧打者でした。
そして外野守備は非常に安定しており、入団から2000年までの間に当時のパリーグ外野手の連続無失策記録を保持していました。
イチロー選手のようなレーザービームでは無いものの、試合前の守備練習を見ているとバックホームが必ずストライク送球になっていたのが今でも強く印象に残っています。

引退後


引退後はジャイアンツのコーチを経て、2020年からはライオンズの1軍外野守備走塁コーチに就任しました。
ライオンズの若手外野手は打撃が持ち味の反面守備に不安のある選手が多いため、1軍でも通用する守備力となるよう指導をして欲しいところです。


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記憶に残る名選手:クリス・カーター選手

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クラッチヒッター


クリス・カーター選手は医者家系に育ち、本人も名門スタンフォード大学を飛び級で卒業してMLBにドラフト指名された異色の経歴の持ち主です。

MLBでは結果が残せず2012年シーズンにライオンズに加入しましたが、オープン戦で膝の故障が悪化し3月に手術を行いました。
そのため59試合の出場に留まりましたが、高い代打成功率と得点圏打率を誇るなどチャンスで活躍してチームのCS出場に大きく貢献しました。
守備の名手だった元ロッテの岡田選手曰く球種とコースからは予測できない打球が飛ぶようで、独特のスイングやミートポイントを持つ打者だったのかもしれません。

チームに勢いをつける活躍を見せたカーター選手ですが、シーズン終盤にまた膝の状態が悪化したため自由契約となり現役を引退しました。
しかし翌2013年に復帰するとBCリーグ石川に入団し、6月にライオンズに復帰しました。
前年のような活躍が期待されましたが14試合の出場で打率1割台に終わり、再び自由契約となってしまいました。
ライオンズ復帰時点でまだ十分に試合勘が戻っていないように見えたため、体調が万全であればキャンプでしっかり調整してもう1年様子を見て欲しかったと思った記憶があります。

チームメイトとのハイタッチの際に腕が持っていかれるほど強くタッチするなど、インテリな経歴とは裏腹に熱い性格でファンからも愛されていました。
特にチームが苦しい状態にあったホークス戦前にチームメイトに前で熱いスピーチを行い、チームを勝利に導いた試合は今でも語り草になっています。

引退後


引退後は一般企業に就職して役職にも就くなどインテリさを発揮しているようです。
そしてライオンズ公式Twitterの投稿に対してコメントを返すなど、アメリカの熱狂的なライオンズファンとも言っても良いような振る舞いをしてくれています。
今でもライオンズを気にかけてくれているのは嬉しいですし、ファンもカーター選手に対して強い思い入れがありますので、イベント等でも良いのでまた何かの形でライオンズに関わってくれないかなと思っています。


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記憶に残る名選手:豊田清投手

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ドラフト3位入団


豊田清投手は同朋大学から1992年ドラフト3位でライオンズに入団しました。
1996年から1軍で先発起用されるようになると、球速はそれほど出ないものの抜群の制球力を武器にローテーションに定着し、1997年と1999年には2桁勝利を挙げています。

ストッパー転向


しかし2001年シーズン開幕後に森慎二投手が不振に陥ると、当時の東尾監督からの説得もありストッパーに転向しました。
当時その報道を目にした際には球威があるタイプではないため抑えは向かないのでは?と不安に思ったものでした。
しかしストッパー転向後は先発登板時とは打って変わって150km/hを超えるストレートとフォークを武器に投球回数を超える奪三振を奪うようになり、また気迫を前面に出すスタイルできっちりと試合を締めくくってくれました。
この時はさすが投手出身監督ならではの慧眼だなと感嘆した記憶があります。
ただこの年は8月だけで3本のサヨナラホームランを打たれチームメイトが心配するくらい落ち込んだ姿を見せたようです。

翌年からはさらに安定感抜群の内容で2年連続で最多セーブのタイトルを獲得しました。
特に2002年は57試合投げて防御率0.78と圧巻の内容でした。

その後は故障や不振などもありつつ2005年オフにFA宣言し巨人へ移籍、巨人を自由契約になった2010年オフに広島に移籍し、2011年限りで引退となりました。

全盛期の森–豊田リレーはライオンズ史上でも屈指の安定感だったと思います。
また先発でも抑えでも四球で大崩れという事がほとんどなく、豊田投手の現役時代を思い出す度に投手はやはり制球力次第だなとつくづく思ってしまいます。

引退後


引退後は巨人のコーチなどを経て今年からライオンズのコーチに就任しています。
今シーズンは課題だったリリーフ陣が整備され特に森脇投手覚醒の背景には豊田コーチの助言もあったとの事ですので、今後もライオンズが再び投手王国となれるようお願い致します。






記憶に残る名選手:高木浩之選手

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経歴


高木浩之選手は駒澤大学から1994年ドラフトで4位指名されました。
1年後に高木大成選手が入団したため同時期に2人の高木選手がプレーしていました。

ルーキーイヤーから1軍出場し、黄金時代のセカンドを支えた現監督の辻選手が1995年限りで退団すると出場機会を増やしていき、1997年には初の100試合超えとなる107試合に出場し打率.278を記録します。
その後は好不調の差が大きく隔年で好成績を残していきますが、2002年には130試合に出場して初めて規定打席に到達し打率.272の結果を残し、見事に二塁手としてベストナインとゴールデングラブ賞を獲得します。
以降もセカンドのレギュラーとして活躍しますが、2005年に発症した視力障害などの影響もあり出場機会が減り、2008年限りで引退となりました。

身長は172cmで、ルーキーシーズン後の南郷秋季キャンプを見に行った際も周りの選手と比べても非常に小柄であったため、当時はセカンドのレギュラーとして長く活躍してくれるとは想像できなかった記憶があります。

プレースタイル


所謂いぶし銀タイプでしぶといバッティングと堅実な守備が持ち味でした。
特に非力ながらもバットコントロールが非常に優れており、規定打席に到達した2002年には446打席で僅か26三振となかなか三振しないバッターでした。

足はさほど速くはないのですが見た目の印象から俊足のイメージを持たれており、野球中継の実況がよく「ランナーは俊足の高木!」と言っているのを聞いてほくそ笑んだものでした。

セーフティスクイズ


高木選手と言えば忘れられないプレーがあります。
具体的にいつの試合だったかの情報が出てこないのですが、2死で3塁ランナーに清水雅治選手という場面で、バッターの高木選手が見事にセーフティスクイズを決めて1点をもぎ取ります。
このプレーが実はノーサインで高木選手と清水選手のアイコンタクトだけで決めたものでした。
森監督から東尾監督に代わり若い選手へと世代交代している状況でしたが、ライオンズ伝統の選手が自主的に判断するそつのない野球はまだまだ健在だなと思ったものでした。

その後さらに選手の自主性に任せる方針となり緻密さが少し薄れてきましたが、辻監督になってからまた隙を見逃さないプレーが増えてきており嬉しく思っています。

引退後


引退後は編成部を経て今は2軍の守備走塁コーチを担当しています。
自身のような堅実なプレーのできる選手を1人でも多く育て上げて欲しいものです。






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ライオンズファン歴35年。ブログでライオンズに関する記事を書いています。